すっごい面白いクラークの第三法則とカーゴカルト

カーゴカルト、という言葉を耳にしたことがあるだろうか。

カーゴカルトというのは積荷信仰とも呼ばれるメラネシアでひろく発生した新興宗教で、島の遠くには豊かなものがあって遠方よりもたらされる富によって人々が幸せになるという信仰である。特徴的なのが飛行場や貨物線を模したものを作り、遠くからやってくる豊かな物資を享受しようとする宗教だ。

 

Wikipediaにすこし記述があるので引用させてもらう。

カーゴ・カルト(cargo cult)とは、主としてメラネシアなどに存在する招神信仰である。いつの日か、先祖の霊・またはが、天国から飛行機文明の利器を搭載して自分達のもとに現れる、という物質主義的な信仰である。直訳すると「積荷信仰(つみにしんこう)」。近代文明の捉え方について独特の形態をとることが特徴である。

 

  • カーゴの到来への期待と、その時が差し迫っていることを告げる預言。多くの場合、カリスマ的な指導者が超自然的な方法でメッセージを受け取り、それを預言として流布させる。
  • カーゴの源泉は超自然的な領域(天国)にあると考えられており、カーゴはカーゴ神(カーゴを創造している超自然的存在)や先祖の霊と共に「汽船」で(内陸部の山岳地帯では「飛行機」で)到来(帰還)する。その際、多くのカーゴ・カルトでは、先祖は白人(白い肌をした存在)として戻ってくると考えられている。
  • カーゴ・カルトのプラクシスとして、カーゴを受け入れるために、桟橋や滑走路が敷設されたり、倉庫や装飾された特別な建物が建設されたりする。沖合や上空を通過する船舶や飛行機を「おびき寄せる」ために、はりぼての「船」や「飛行機」を設置する。また、「カーゴ」の到来を促進するために、興奮状態(トランス状態)になって集団でダンスや歌を続けたり、放心状態となって海岸で水平線を見つめたりすることに専心する(それゆえ、日常のルーティンがすべて放棄され、村落の生活が荒廃してしまう)。さらに、たとえば集落の広場に整列して行進したり、盛装をしてテーブルについたりと、ヨーロッパ人の行動の模倣を行う。
  • 白人(ヨーロッパ人)がカーゴを独占しているのは、カーゴの獲得方法(ネイティブにしてみれば、それは超自然的な呪術的方法ということになる)を白人がネイティブに明かさないからか、もしくはもともとネイティブ向けに送られたカーゴを白人が不正な手段を講じて横領してしまったからであると、カーゴの分配についての不等な現状が説明される。」

 

リチャード・ドーキンスの著書「神は妄想である」第5章「宗教の起源」の中にもこのカーゴカルトは登場する。

・・・島民達は・・白人入植者たちのすばらしい持ち物に圧倒されたらしい。彼らはひょっとしたら・・クラークの第三法則、すなわち「十分に進んだテクノロジーは魔法と区別がつかない」という法則の犠牲者だったのかもしれない。

 島民たちは、そうしたすばらしい持ち物を享受している白人たちが、それらを自分たちではけっしてつくらないことに気づいた。品物に修繕が必要になると送り返され、船の「積荷」(カーゴ)、のちには飛行機の積荷として到着する新しい品物が到着しつづけた。何かを修繕したり、つくったりしているところを見られた白人は一人もいなかったし、彼らは実際、何らかの種類の役に立つ仕事と認められるようなことを何一つしなかった(机に座って書類をめくるのは、ある種の宗教的な礼拝としか思えなかった)。したがってどうやら、「積荷」は超自然的な由来のものであるに違いない。まるでそのことを証明するがごとく、白人たちは儀式としか考えられないようなある種のことを実際におこなっていた。

 

 彼らは、ワイヤーをつけた高いマストを立てた。彼らは、座って、光が点り、奇妙な音楽と喉の詰まったような声を発する小さな箱に耳を傾けていた。・・・・

 

興味がある方は是非読んでいただきたいリチャード・ドーキンスの著書、紙がある。リチャード・ドーキンスは言わずとしれた「利己的な遺伝子」の著者だが、キリスト教文化圏でキリスト教の教育に大いに抑圧されて育った。そのためかなり宗教については否定的で、きっと彼は神は死んだ、言いたかったのだろうと思われる。ともかく、宗教についてのいろいろ示唆に富んだ知見を多く述べられた、ドーキンスの嘆きと憤りの詰まった一冊でキリスト教の国で育っていない我々にはなかなか難解な部分もあるのですが、読み応え十分のどっしりとした本です。

 

さて、カーゴカルトの話に戻ろう。島の遠くには豊かなものがあって遠方よりもたらされる富によって人々が幸せになるという信仰である。飛行場や貨物船を模したものを作り、ラジオのハリボテを作って富を呼び寄せようとする様はなかなか興味深い風景で、「マッド・マックス」や「ミラクルワールドブッシュマン」などの映画に登場することをご存知の方もいると思う。

 

 遠くに優れた素晴らしい場所があってそこからなにか素晴らしいものがもたらされるという概念は沖縄の「ニライカナイ」にとてもよく似ていてとても驚いた。もしくは仏教の西方浄土という概念にも似ていないだろうか。外部からくる人やものを神聖視する概念は古くから日本各地にもみられる。そしてゲルマン民族ケルト民族には「神聖なる来訪者」の伝説や風習がある。人は本質的に知らないものを「神秘的だ」と感じ恐れ敬うようにできているのかもしれない。

 神は人の本能だ、というのがいまのところの私個人の考え。人は群れて生きるようにできている。そういう本能を持っている。どんなに人付き合いが苦手な人でも孤独な状態でのコルチゾール濃度(ストレスの目安となる)を測定すると、他人と一緒にいる時よりもコルチゾール濃度が高くなる、つまりストレスを感じているのだ。これはどういうことなのか。人は群れを作ることで群れることで外敵から身を守り、子育てをし、食糧を得て生き延びてきた生き物だ。群からはずれて孤独であると自分自身で外敵から身を守らなくてはならず食糧調達も自ら全て行わなくてはならない。つまり孤独は生存を脅かされることそのものだ。だから孤独になると人体は戦闘体制を敷いてコルチゾールが分泌される。人間は群れにいないと不安を覚えるようにできている。孤独は喫煙ぐらい短命のリスクがある。群れることは我々にとって安全保障で生き延びる術なのだ。生き延びるようにできた本能をもっているから命を繋いで我々はここにいる。

本能を無視してはならない。人付き合いが苦手であろうと我々は誰かと過ごすことで安らぐように作られている。そういう本能を持っている。

 同時に本能をむき出しにして見せつけるのは文明社会に生きる我々にはそぐわない。本能そのままで生きることは裸体でどこそこかまわず歩き回って性器を見せつけるような行動にちかい。現代社会にはそぐわないってこと。同時に本能は本能としてそこにあって抑圧したとしても決してなくなるものではなく、我々の根本的な欲求として人の内部にありつづけるもの。

だから、我々は我々自身の中にどんな本能があるかを自ら知り、適度に面倒を見なくてはならない。

適度な人との距離が大切だ。そう思う。

 先日、友人が「お金があっても幸せじゃないですよ」とぼそっと言った言葉がいまだに心に残っていてふと心が空になった瞬間にその命題がやってくるのには困っている。幸せって多分追求しても手に入らない虹の根元みたいなもんじゃない?って話を、その友人とできれば良かった。つぎにそんな話ができる瞬間はいつくるんだろう。幸せの定義について話すことは人との距離の難しさだ。